Feeds:
投稿
コメント

Posts Tagged ‘動と静’

ベタな内容になりますが、今ピンチなんです、いろいろと。今日も業務後にチーフとコメダでコーヒー飲みながら作戦会議をしていました。既に作戦会議とか言ってる時点で、ピンチではなくチャンスになっているんですけど。

 

帰宅してから、さっき話し合ったことを咀嚼しながら考えていたら、やはりチャンスは2つに分類されるなぁなんてことに浸っていました。1つは、先述したように、ピンチはチャンスの流れ、もう1つは、自らチャンスを獲りに行ったときの流れ。常にピンチの連続という状況ではないので、基本僕は後者寄りだと思うけれど、久しくピンチに遭わなかったことから、今日起こったピンチというのはとても新鮮で、そこからが問題解決能力が発揮されるという地頭が試されるというか、ワクワク感がドッと出てくるというか、とにかくゼロベースからスタートするということを意識していくようになります。

 

ここでも何度も書いていますが、動と静を知らない人には壁(≒ピンチ)は訪れないということを今日改めて意識しました。常に意識していなければいけないような重要なことだっただけに、少しだけ反省しました。自ら呼び込んだピンチというのもが、最近減っているということにも捉えられるし、あかん!あかん!なぁって心のなかで叫んでおりました。やはり、前を向きながらガンガン行かなければ、ピンチなんか出てくるはずもない。ということは、チャンスを2分類した、それも自らチャンスを獲りに行った、という文言は結局のところ、ガンガン行った結果、その時その時のピンチに真摯に向き合い、対処し続けてこれた成果(≒チャンス)だと確信しました。

 

さぁ明日からもがんばろう。

 

【ひとりごと】自ら掴みとれ

Read Full Post »

壁は壁でも、自分が押っ立てた壁のことです。僕が生まれて初めて押っ立てた壁は、大学生の頃まで遡ります。「あれもしたい!これもしたい!」という感情のまま、いきなり起業して数カ月後に経験したのが、生まれて初めて押っ立てた壁でした。内容に関しては割愛しますが、その壁を越えるには相当時間が掛かると思った若かりし頃の僕は、壁を越えずに、壁をぶっ壊すことに専念したのを、今でも覚えています。

 

壁。僕は「壁」を語りましたが、前提として「自分が押っ立てた」としています。このニュアンスは、僕のニュアンスでもなく、尊敬する芸術家「岡本太郎」が言い残した言葉であります。岡本太郎は、「壁は所詮自分が押っ立てた壁にしかすぎない。だから壁を越えるのも壊すのも自分だけ。」と言っています。この言葉に出会ったのは、相当昔ですが、上記で紹介させてもらった頃の自分が、この言葉を冷静に思い出して、「壁を壊す」という行動に出たわけではありませんがね。

 

「壁」って一体何なんでしょうね。答えは人それぞれあるかと思います。またその壁を「越える」のか「壊す」のかも同様にです。僕が言いたいのは、「壁」を経験しているかしていないかは、僕が人を視るときの極めて重要な指標になるということです。壁を越えたか壊すかはさほど僕の中では重要視していないは事実で、如何に「壁を経験している」かを僕は重要視しています。全員が全員、「壁」を経験しているとは限りません。少し前に書いたblogでもそうですが(動と静の使い方)、「動」を知らなければ「静」も知る由もないということ。つまり、「動」を得るにはフットワークが必要になり、腰が重い人間は「動も静」も経験出来ずに生きていくということ。これと「壁」はかなり類似していると僕は思っており、「動」が無い人間の前には「壁」も立つことも無いことでしょう。

 

根本的に、「壁」を知っている人間は、「己の夢」を語ってくれます。友人の言葉を借りますが、「夢を忘れないこと」。この言葉をなぜ友人が言ったのかわかりませんが、「夢を語る」ことを忘れてしまっている人間が最近は多くいるような気がします。それか、「夢を語る」こと自体が忘れ去られているようにも思えます。僕が若かった頃、多くの夢を多くの仲間らと語った記憶があります。その仲間たちは、その後、自分が押っ立てた「壁」にぶつかり、必死にもがいたはずです。それがどんな結果であっても、素晴らしい経験をしていると思います。

 

とにかく「夢」を語りましょう。このblogを読んでくれている若者は、今すぐ「夢」を語りましょう。そしてその夢に向かって「動いて」ください。そして自分が押っ立てた「壁」にぶつかってください。その壁を越えるのか壊すかは、壁を押っ立てた君が決めること。逃げてもいいけど、逃げるなら前に向かって逃げなさいよ。

 

【ひとりごと】壁の次は真っ白なキャンバスです

Read Full Post »

動と静のつかいかた

少し前にある後輩に「動と静の使い方」について話をしたことがあった。その彼は当時、常に動いていたのだが、そんな彼を見ていて少し心配になったので、この話をしました。「動と静」というと昔から話に挙がるのが「教育現場」においての話。「動」のときは、子どもたちが活発に意見を言ったり、笑ったりする。「静」のときは、子どもたちが一転して静かに、黙々と作業をする。そういう授業をよい授業というらしい。またそういう指導ができる教師を、すぐれた教師というらしいです。この「教育現場」で使い分けされていることになぞって、常に動いている彼を当てはめてみると、彼には「静かに、黙々と作業をする」ということが完全に欠けていたのだと思う。

 

この話をそんな彼にしたとき、彼は一見普通の表情をしていたことが、とても印象的だった。基本、素直な良い後輩なのだが、そのときは「キョトン」としていたようにも見えた。数ヵ月後、彼は僕の前で、悔し涙を見せながら、こう語った。「先輩が言っていたこと、ようやくいま理解できました。僕には「静」がなさ過ぎました。」と。僕が常々口にする「カタチにする」という言葉は、どう生まれたのかというと、悔し涙を見せた彼と同じ経験があったからだと思います。僕も若かった頃、常に「動」しかないような感じでいました。常に動けている、常に人と会っている、常に笑っている、って素晴らしいことなんです。さらに、とても生きている感じもしていました。ですが、な〜〜んにも残らないってことを、その当時感じてもいませんでした。な〜〜んにもってことは決してありませんが、そんなに動いているのだから、一つや二つは、何か成し遂げたんじゃないの?と言われると、「・・・」となってしまう自分がいたのは間違いありませんでした。

 

教育現場における「動と静」では、「動」は活発に意見を言ったり、笑ったりする、ということ。「静」は静かに、黙々と作業をする、ということ。そして、その「動と静」を提供できるのは、「いい教師」だということ。“いい教師になりましょう!”と言っているのではなく、「いい教師」のような立ち振る舞いが出来るように、「動と静」を使い分けしていかなくてはならないのだということ。さらに、僕なりのニュアンスですが、「動」で手に入れたモノを、「静」にてカタチにする、これこそが「動と静」を使い分けすることなのだと思います。

 

僕の周りには、この「動と静の使い方」が上手な方々が大勢います。そんなカッコイイ方々を観察していると、ローギアからいきなりトップギアに加速し、そしてまたいきなりローギアにシフトチェンジをする様を見ていると、ものすごく勉強になるのですね。車なら普通エンジンに負荷がかかってしまうところなのですが、熟練してくると、エンジンに負担がかからない走りをするというよりも、強靭なエンジンを搭載しているようにも見えてきます。変な例え方www

 

でもこれだけは言っておきます。「動」を知らない人間には、「静」の良し悪しは理解できません。さらに、「静」しか知らない人間は、「動」にはなかなかシフトチェンジ出来ません。「動」を知っているからこそ、「静」を知る権利があるのです

 

【ひとりごと】来週月曜日が待ち遠しい

Read Full Post »

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。